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   糸地獄

1992年オーストラリア公演 ☆無断転載禁止☆
パースプログラム
アデレードフェスティバル、プログラム
アデレード演劇祭、劇評 (訳:清水真理)
「糸が織り込む家族模様」(THE NEWS3月4日号)
 「糸地獄」は変化豊かな舞台である。
 この作品は、日本文化の伝統とメタファーを元としたアバンギャルド演劇である。
 この舞台の中核をなす象徴は、蚕が撚る貴重な糸であり、それが演劇形式を借りて、世代を通して家族をつなぐ絆を描写している。
 「糸地獄」は1920年代の日本を舞台とした、若く、苦い思いをしている女性が製糸工場に引きずりこまれた母を探す物語である。
 前工業化社会の日本での、奴隷にも等しい女性たちは、毎日絹糸を紡ぎ、夜は売春宿で働いている。
 この作品は、強烈なイメージと、勢いの激しい演技が傑出しており、とりわけ売春宿と女性開放のシーンはすばらしい。
 想像力に富む舞台と、緻密な照明は、詩的豊かな雰囲気を作り上げており、この作品を記憶にとどまっていく演劇作品に仕上げている。
 同時通訳は便利ではあるのだが、ドラマに対する興味を減じる傾向にある。

(ジョン・ハリス−評)
「無存在という地獄からの脱出」 (THE ADVERTISER 92/3/5)
 始まりに、糸地獄がある。固く、価値観のシステムに封じ込められた糸地獄で、製糸工場にいる少女たちは、自分たちが誰で、何なのか、そして一体何をやっているのかすら知らずにいる。
 彼女たちの活動や「身の上話」は、主人にでっちあげられたものである。彼女たち自身の存在を除いて、すべての部分は主人の思想の部分と化している。
 迷い込み、母を探している繭がこの場にやってきたことが、織り込まれた織物を解きほぐし、女性たちの実体をあかす鍵となっている。
 これが、岸田理生の戯曲がベースとしている、人形の中にある人形というモデルである。これ以外の部分は、純然たる舞台である。
 演出の和田喜夫は、マッチを擦り、闇の中で懐中電灯を使うことに始まり、独創的なビジュアルと動きに基づいた演劇の持つ豊かな表現で芝居を貫いていくという、すばらしい演劇手法を見せてくれる。
 武藤聡のオリジナルによる照明は、霧によってよりドラマ性を帯びており、その照明を伴ったモノクロの装置と衣装デザインと、繭が芝居中、母を探すために手繰り寄せる赤い糸は、この作品ビジュアル面での斬新さを、とめどなく押し出している。また、大人数のキャストによる、濃く凝集された踊りと動きは、
過去のこの芸術祭でわれわれが見てきた舞踏を想起させ、西洋演劇とは全く異なった舞台的言語を醸し出している。
 そして、作品全体を通して見られる哲学的なスタンスは、政治的かつ道徳的に仕組まれたものであり、演劇と音楽とともに、一体化している。
 繭は、われわれがとらわれ、われわれの価値観を形成する社会的条件付け、という幾重もの層を打ち破り、究極的には、個人、という個体に到達する。その時になって初めて糸地獄は断ち切られ、製糸工場の女性たち自身も解き放たれるのである。
 しかしながら、西洋の観客にとっては矛盾に感じる要素がある。演出家の絶対的権限と、個性を失わせられることによって操作される役者、そして、
全体的な男性優位性は、この芝居の意図していた所とは正反対のところにある。結局、糸はすべて取り除かれないのである。

(ティム・ロイド−評)
「勝利の公式」 (THE ADVERTISER 92/3/7 MICHAEL BILLINGTON)
(注−イギリス一の劇評家、マイケル・ビリントン氏の芸術祭関連記事)
 私の観劇リストの中でベストの作品を選ぶなら、すでにこの新聞でも絶賛された日本のフェミニズム演劇、「糸地獄」になるだろう。
 ヨーロッパ人にとっては、この作品は、強固な教理として、自覚をうながす作品となりうるだろう。この芝居のすばらしさは、その視覚美と
言語的象徴性にある。この作品は、プロパガンダというよりはむしろ、演劇詩としてあらわれている。